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日タイロングステイ交流協会

国内抗争で国際信用を失墜したタイ王国 -黄シャツと赤シャツの暴挙-

2009年08月12日(水)

日タイロングステイ交流協会 事務局長 上東野幸男 (09-4)

 

  タイ憲政最強のタクシン首相(23代)へのクーデター(06年)から2年以上の政治混乱を経て、12月政権に就いたアピシット新首相(27代)は、東アジアサミット(16カ国)などの国際会議を4月10日・パタヤ海岸で開催したが、赤シャツデモ突入で中止となり、タイの国際信用を更に失墜させてしまった。当初この会議は東南アジア諸国連合(アセアン・67年設立・現在10カ国)の「アセアン憲章」が発効した昨年12月に開催の予定であった。しかし議長国タイでは11月反政府勢力(PAD・民主市民連合・黄シャツ)のバンコク空港占拠という国際的影響を伴う歴史的事件のため延期され、更にこの反政府勢力の新政権(民主党主導)が誕生して仕切り直しになり、場所も三転した。

 

  即ち新政権に対して今度はタクシン派(UDD・反独裁民主同盟・赤シャツ)のデモが続き政情不安のため、2月のアセアン諸会議は混乱を避けてプーケットや国王陛下ご在地のホアヒンで開催された。微笑みの国・タイ王国と言えば、数百年の日本友好国(太平洋戦争の同盟国、06年日タイ修好120周年、タイ王室と皇室の緊密な関係など)であり、東南アジアでは政治と経済安定の模範生で、アセアンのリーダー的存在であった。

 

  地理的にタイ(T)は、インドシナ半島の中心にあり、東はカンボジア(C)、西はミャンマー(My)、南はマレ-シア(Ma)、北はラオス(L)に国境を接し、戦乱・王朝興亡の長い歴史がある。現在はメコン河流域諸国(Ch中国・Vベトナム・C・L・My.T)の協力関係、また各国を結ぶ東西回廊(VからL・T経由Myまで)と南北回廊(ChからL・My経由T)の開設、タイと隣国との橋や鉄道の開通などで急速な物・人・文化の交流拡大が始まっている。更に近い将来アセアン(人口5.8億人)域内FTAから共同体移行や2国間EPAの推進などでタイも周辺国も急速に大変化するはずである。

 

  経済では、85年のプラザ合意から日本の巨額投資、製造移転により、タイ工業化が急速に進展した。GDP成長率は88年~90年が2桁、91年~95年も8~9%台。97年の通貨(バーツ)危機も乗り越え、01年タクシン政権の成長政策で02年~05年は年平均約6%になった。その結果在留邦人44千名・日系企業7千社(日本人商工会議所加盟千3百社)・日本人学校2千5百名という大きな日本人社会が形成されている。

 

  タイの立憲君主制は1932年(昭和7年)から僅か80年弱の歴史であり、その間プミポーン国王陛下のご治世が62年である。タイ国王(王室)の権威、存在感(カリスマ性・人気)や絶大な政治的パワーはタイに生活して初めて実感できるし、それを当然として納得・了承してしまうのである。

 

   即ち社会騒動や政治混乱の時に、国王が登場して裁定をするタイ式政治解決を国民も期待してきたのである。日本のマスコミも「国王のご健康がタイ安定のキー」と発言してきた。タイ国旗の三色の白(真中)は王室、青が宗教(仏教)で赤が国民である。また国歌は「国のために戦おう」という激しい内容である。戦争といえば軍であり、タイ政治には「軍・警察」が長らく大きな影響力を持ち続け、クーデターも実行してきた。80年以降でも16代プレム(現在枢密院議長で国王の信頼絶大、80~88年首相時代にク-デターを2度制圧)、19代スチンダ(91年クーデター首謀者)、22代チャワリット、24代スラユット(06年クーデター後の暫定首相)が陸軍司令官経験者である。筆者の経験した91年のクーデターは典型的無血クーデターでタイ国民は全く騒がず、日常生活も平穏そのものであった。

 

  92年のスチンダ首相への民主デモ(軍の発砲で多数の死傷者)ではテレビ放送された国王のご裁定に驚愕したが、腐敗・汚職政治にはクーデター、軍・警察の突出には民主デモというバランス感覚と国王裁定こそタイ式民主主義であると実感した。政党は地域的小党の合従連衡が続いていたが、01年タクシンの登場で初めて絶対多数の独裁政権になった。選挙で圧倒的支持を得た自信からポピュリズム的政治、タクシノミクスという経済施策など革新的な反面、自身の金権汚職疑惑や既成特権階級や枢密院(王室側)・軍などとの対立でタクシン包囲網が生まれて、06年9月(15年振り)のクーデターで失脚した。また最も民主的という97年憲法も07年軍事暫定政権時に16次憲法として改正(後退)された。しかし軍事政権下の07年末の選挙でもタクシン派政党が勝利し、08年は派閥後継首相が2代続いたが、更なるタクシン包囲網とPADデモで退陣し、下院で僅差にて反タクシン新政権に移行したのである。

 

   従来のクーデター解決よりも政治混乱が長期化し、国際社会にも迷惑をかけた状況を以下に整理してみる。

  1. 15年振りクーデターやデモに対し、従来の「タイ式民主主義」という評価に対し、「武力による反民主主義騒動」という批判が増えた(特に欧米のマスコミ)。
  2. 社会階層間や地域間の対立でタイ国内が二分された。
  3. タクシン支持が多数のため決着できない。
  4. 空港占拠などで国際的な損失に与え、タイへの信頼を大きく失った。

 

  更に恒例の12月5日誕生日前の国王陛下演説が(黄シャツデモの空港占拠についてのお言葉が例年以上に注目されたが)昨年はご在位62年間で初めて中止されている。

 

 「国民和解と経済再生」を謳う新政権は不安定・短命と見られたが1月補欠選挙の勝利、若き首相(44歳)の外交(2月初旬来日、アセアン会議開催など)も評価され、更にタクシン的な「ばら撒き」施策も実施してきた。タイ市民の「もういい加減にしてくれ」の気分や、海外のタクシン資金難等から過小評価した赤シャツデモへの対処は(前政権の黄シャツデモ強制排除を非難し、空港占拠処分も不十分という負い目はあるが)明らかに危機管理能力欠如であった。

 

  今やタイ式民主主義に対して海外からさまざまな批判がある。今後は選挙・議会・法律を基本にして、国際社会に損害を与える暴挙を無くし、新しい思考・手法と独特のバランス感覚でタイ政治経済を安定することが急務である。今やバッシング(叩き)からタイパッシング(無視)が懸念される事態に至っている。

 

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