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日タイロングステイ交流協会

タイ王国で体験したタイ式政治解決の推移

2009年01月10日(土)

日タイロングステイ交流協会 事務局長 上東野幸男 (09-1)

 

タイとの永いお付合いで戴いた品々は思い出とともに我家を飾り、日常にも役立っている。金・宝石・木彫(サワディ人形・動物)・絵画・ベンジャロン(置物・食器)・絹物・皮製品・貝細工などのタイ特産品。また欧米製記念品の時計・カフス・ネクタイ・ベルト・財布・文具・なども長らく愛用している。その中で未使用の鰐皮の財布があるが、これを見るたびほろ苦い思い出が蘇ってくる。

プレーム枢密院議長 (一期一会)

約20年前タイ国策会社の披露祝宴のメインテーブル(円卓)で、私は主賓プレーム前首相とM電機S社長に挟まれて極度の緊張状態にあった。M電気入社以来20数年 海外業務も担当したが、海外駐在は全て断わってきたツケが突然のタイ国勤務になって赴任した直後のであった。タイ語もタイ王国のことも何も知らないM電機タイ代表(数社の社長や役員)としての最初の大イベント参加であった。当時タイ王国のCTV製造のCRT(ブラウン管)は輸入品であり、CRT国産がタイ政府・業界の熱望であり、日本のM電機の技術・製造が採用されて THAI CRT 社 が発足したのであった。

プレーム前首相(8年の長期政権、元陸軍司令官)とは初対面、グレイのタイのフォーマルウエア(プレームさんの発案)を着用した小柄・色黒で「微笑みの国」とは程遠い無愛想な方であった。一方S社長も前日タイ国到着時が初体面であった。雇った女性通訳(日本語=タイ語)は離れたテーブルで楽しそうに食事しており、私はVIPお二人の間をダメ英語で介在もできない状況であった。しかしこの苦境はハプニングで救われた。プレーム氏から「記念品(鰐皮財布)の予備がほしい」との要望があって、しばし通訳と席を交替して追加記念品をお渡ししてから急に気心が通じてきたのである。また 後日頂いた丁寧なお礼状で何とか面目を保つことができた。

それ以後体験した「タイ式政治解決」を古い手帳や資料を見ながら回顧してみる。

1991年2月 クーデター

ナワタニGCはワールドカップ(1975年)も開催された名門ゴルフ場で駐在日本人の社交場でもあった。土曜日 賑わっているクラブ食堂のCTVの画面はタイ国旗だけが映っていたが、従業員に特に変わった感じはない。かなり時間がたってから誰かが「クーデター?」と叫んで、日本人は大慌てで飛び出した。家のメイドから「電話・日本・奥さん」と聞いて日本に電話。「軍隊が貴方の会社のビルに突入しているNHKニュースを見てビックリして会社にも電話した」「土曜休日だから、俺はナワタニGCに行っていたが、タイ人は全く気にしていない」と会話は噛み合わない。

註* 会社の入っているビルの最上階(20F)に.テレビ局(3CH.)があったので軍隊が占拠管理した。
* タイパートナーの会長に電話すると「別に何でもないないから、夜にでも街を視察したら良い経験になる」とのことで、運転手を呼んでコワゴワ巡回したが何処もかしこも全く平穏そのものであった。
* チャーチャイ首相(内閣)は金権汚職体質と云われ、関係悪化の軍の幹部更迭人事案を持って国王の居られるチェンマイに出発するドンムアン(バンコク)空港で拘束された。3月上旬には釈放されて、英国へ出国 (後日帰国)。

これは典型的な陸・海・空・警察による無血クーデターであった。一方 軍出身のプレーム前首相(在任80年~88年)は81年・85年のクーデター(失敗)を乗り越えてきた。

1992年 プルサパ タミン(5月の殺戮)

タイ式クーデター以上に驚愕したのがこの事件である。クーデターから暫定軍事内閣・憲法改正、新内閣発足がお定まりのコースらしいが、財界のアナーン首相の手腕で混乱は収拾された。ところがクーデターのリーダーのスチンダ陸軍司令官は「首相には就かない」との前言を翻し、92年4月首相に就任。以後 数万から最大30万人(携帯電話情報で集まる)の抗議集会が行なわれ、5月18日(月)軍がデモ隊に発砲し多数の死傷者・不明 者をだす大惨事になった(ワイフは不穏な噂があったので前日・日曜日に日本へ帰国)。

註* この時も国会周辺以外は平穏であったが、報道規制で「翌朝の新聞(英字)は白紙面が多く、騒乱のTV放送もないので、朝早く(時差2時間)からの日本からの問合せや本社からの報告要請には全く答えられず、逆に日本の新聞やTV録画を頼る状態であった。またまた「平常とおりを確認する」ために車で各地域の得意先(電機店)を巡回した。
* デモ民衆に演説をした「スラムの天使」と呼ばれ、マグサイサイ賞受賞のプラティープさんが、騒動の中で日本大使公邸(岡崎大使)に避難し保護されたことは、夫の秦辰也氏の「バンコクの暑い季節」(岩波同時代ライブラリー)に詳しい。

20日、プミポーン国王は枢密院のサンヤー元首相、プレーム元首相に指示し「スチンダ首相と民主主義連盟のリーダーのチャムロン前バンコク知事」を王宮に呼び解決を命令。この時の国王陛下の前に跪拝する二人の姿と国王のお言葉のTV放送には「時空を超えた別世界の出来事」のように感じた。この映像は世界中に強烈なインパクトを与えたと思う。

スチンダ陸軍司令官(19代首相) 美人キャディを争うライバル

この事件に加え、更に総選挙で民主党が勝利し、チュアン内閣が発足(92年9月)してからは軍の政治への影響力は急速に衰えたのである。恰幅もあり愛想が良いスチンダ将軍とは前述のナワタニGCで時々お会いしたが、私が指名済みの可愛いいキャディを横取りするライバルであった。首相退陣後、メンバー大会での賞品授与役などを務められた折に初めて会話する機会を持つことが出来た。おおらかな軍人のようで、権力志向は感じられなかった。

史上最強のタクシン首相登場

その後 バンハーン首相(95年・タイ民族党)、チャワリット首相(96年・新希望党)、タイ金融危機(97年7月)、新憲法(97年10月)、チュアン首相(97年11月・民主党) を経て 2001年2月 タクシン政権(タイ愛国党)が登場した。

タクシン首相は就任当初から資産虚偽申告を憲法裁判所で審議されたが、僅差での無罪判決を得てから、内政・外交で(タクシノミクスと称される)新政策を打ち出して民意を掌握したが、特権を失った守旧派の反感を買い、特に金権体質を終始厳しく追求された。

日本で国民の圧倒的支持で革新政策を断行した小泉首相と全く同期間に、圧倒的得票を背景にしたカリスマ性で過去にない強い首相像をつくり上げたのであるが、最近は「改革を急ぎすぎた」との弁解も述べている。また下記のような国王陛下への畏敬やご忠告をも無視する態度や枢密院プレーム議長との対立等が反タクシン派を増大させたと思われる。

註* 05年総選挙はタイ愛国党が単独で75%を確保し、06年選挙(後日無効判決)でも勝利した。

2006年6月 プミポーン陛下在位60年祝賀

天皇皇后両陛下もバンコク祝賀行事に出席された。

手元にある6月8日の朝日新聞祝賀記事のキーワードは「タイに安定、在位60年」「プミポーン国王 街は祝賀一色」「私財で開発、求心力強く」「政治利用、戒める声も」などで、「タイの政治や民主主義は成熟課程にあり、国王の力が必要」の意見と他方「国王は高齢でタイの将来を考えれば早くこの状態を脱すべき、国民が自己の力で問題を解決する方法を学ぶべき時である」との意見を紹介している。

参考までに 在位50年(1996年6月)の日本経済新聞祝賀記事のキーワードは「安定の要、タイ国王」「次(代)に漂う不透明感」「国民の信頼絶大」「健康が最大のカントリリスク」「豊かな王室財力(民間からの多大な寄付金)」と酷似しており、上述の92年の「5月の殺戮」の収拾にも触れている。「国王陛下のご健康がタイ国の安定・繁栄の基礎である」と(10年の時差にも拘わらず)日本の大新聞が同様の見解であり、私も納得同感していたのである。

クーデター2006年9月(タクシン首相外遊中)

15年前のプルサパ タミン(5月虐殺)で軍の勢力は失墜し、武力クーデターはありえない筈であったが、軍・警察がタクシンの強さに一撃を加えた。

スラユット暫定首相(枢密院議員・元陸軍司令官)の元で、憲法改正(初の国民投票)、総選挙を実施。07年12月総選挙でタクシン愛国党後継の国民の力党が勝利(タクシン氏も帰国)、後継者を自称するサマック首相、次いでソムチャイ首相が選ばれたことはご存知の最近ニュース(08年)でもあり、対立の図解をご参照下さい。

 politicalMap

政治の中の軍と政党

永年 軍は最大の政治勢力を保持してきた。立憲君主制(1932年)の中で軍人首相も多い。1980年以降でも16代プレーム、19代スチンダ、22代チャワリット、24代スラユットの4人が元陸軍司令官である。 一方政党は地域代表的で離合集散して(党名も変わり)政局では寝返り・引抜きが行なわれる。今回アピシット内閣でも首相選挙でのタクシン派寝返組を論功行賞閣僚にしている。

註* 今年ミャンマーでは仏教僧侶が抗議行動に参加していた。タイ国の仏教僧侶は約30万人であるが選挙権がないことを最近知った。これも政治場面に登場しない理由かも知れない。

今回の政変の特徴

この2年間の政争を過去と比較してみる。 特に 4 は重要ポイントであると思う。

 

  1. 15年ぶりのクーデターは「またか。タイ式民主議だ」などと従来通り受入れる考えに対し、武力による民主主義破壊と考える意見が多くなった。海外(特に欧米)は選挙・憲法・議会・司法への軍や王室の関与は反民主主義ととらえている。
  2. 一般民衆段階からさまざまな階層で国が二分された。
  3. 従来の解決に比べ抗争が長期化した(タクシン包囲網にも拘わらず)。 クーデターで倒されたタクシンは超強力で、タクシン支持者が多数派であった。
  4. タイ国史上連綿と続いた「外国に開かれた姿勢」への信頼を失った。PADの国際空港占拠は世界各国の約30万人の足を止め、タイ国の対外イメージや評価を下げ、重要産業の観光は大きく傷ついた。

 

註* 最近の世界平和指数では百位以下で、イラクやミャンマー並みになっている。

新政権(08年12月スタート)への期待

08年タイ国10大ニュースは一言では「政治対立の激化で経済(景気)に大打撃」となる。

アピシット新首相は「国民和解」と「経済再生」を優先課題にしており、タクシンの草の根支援も入っている。民主党(第2党)を軸にした連立内閣(旧与党が半分)には期待と共に早くも不安が取りざたされており、1月の下院補欠選挙も注目されている。

若さと新鮮さでタクシン以上の画期的新政策の推進を願う。早速タクシンに対し「タイ国民は寛大」と言って帰国を呼びかけたことも素直に受け止めたい。また「PADの行なった空港占拠などは2度と起こさない」とわざわざ英語で発表したことも歓迎したい。

註* アサンプション大の12月調査(3千人強)では、約3割はタクシン派政権支持・12%が不支持・6割弱が中立であった。

 

☆☆☆本稿は一部割愛して D-MARK MAGAZINE 最新第13号(2009年1月号) に掲載しています。

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