日タイの歴史を刻む建物
2007年12月20日(木)
日タイロングステイ交流協会 事務局長 上東野幸男 (07-12)
今年2007年は「日タイ修好120周年」である。この宣言が調印された1887年(明治20年)はタイ王国がチュラロンコン大王(ラマ5世)、日本国は明治天皇の治世である。(同じアセアンのマレーシア、フィリピンとの修好は日本敗戦後に結ばれて50年である) 年初からタイ国・日本双方で開催されたさまざまな祝賀行事に参加するたび両国の数百年にわたる友好関係を実感している。9月26日・修好記念日には上野動物園(象の広場の隣り)に「サーラ・タイ」(タイ風東屋)がタイ国から寄贈された。 また日タイ両国で記念切手も同時発行されている。この東屋を含め、日本にあるタイ王国関連の建物をご紹介する。
上野動物園内 サーラ・タイ
建物には日タイ修好記念ロゴマークが取り付けられている。9月26日の贈呈披露式にはタイ王国からサワニット外務副大臣、日本は秋篠宮殿下が出席された。その週は上野駅構内・周辺もタイ国ムード一色になった。動物園では象さん(タイからは2頭)だけでなく、金色の東屋も是非ご覧願います。
ワットパクナム日本別院 (千葉県 大栄町)
タイ国のワットパクナム・パーシーチャロンは18世紀アユタヤ王朝末期、パク(口)ナム(水)の名前の通りチャオプラヤ川河口トンブリ地区に建立された「瞑想」を重んじる名刹である。日本別院は在日タイ人の寄進により1998年開設され(敷地3400坪)、その後5年半かけて2005年4月に写真の「ウボソ」(本堂・布薩堂)が竣工した時は105人のタイ僧侶と約3000人のタイ人が参集した。小生はタイ大使館が行なう在日タイ人へのマッサージ研修修了式に数度参加し、いつも生徒と一緒に野菜炒めと魚のから揚げの昼食を頂戴した。また移動領事館の開催時は約2000人の在日タイ人が参集、タイ語、タイの音楽・料理・香匂が溢れてタイの田舎のお祭りに紛れ込んだ感じであった。 * この畑の中のタイ寺院を訪ねる時は約20年前のタイ国最北・チェンライの小さな古寺を思い出す。初訪問時に修理・改築の資金不足を訴えられ、同行したタイの長老(亡父の友人)から「鐘突き堂に寄付すると、君の名声が四方に広がる」と聞き5,000バーツ(当時3万円)寄進した。忘れた頃に送られてきた相撲の番付表のようなタイ文字だけの名簿の最上段に唯一漢字の私の名前があった。残念ながら未だに実物を見ていないが完成予想の絵はこの日本別院そっくりであった。
覚王山 日泰寺 (名古屋市 千種区)
1900年(明治33年)にシャム国王(チュラロンコン大王)から贈られた仏舎利(お釈迦様の遺骨=1898年インド北部で発見された)を奉安するため、1904年創建された超宗派の寺院。新寺院建立の候補地については調整が難航したが、市民の協力で10万坪の土地を準備した名古屋に決り、山号は釈尊の敬称である「覚王」となった(寺号はシャム国がタイ王国になった1932年に日泰寺と改名された)。 ご本尊は「仏舎利」とタイ王室寺院伝来の国宝・釈尊金銅仏である。
日本仏教19宗派の管長が3年交替で住職を務める唯一の全仏教寺院である。数年前訪れた時は(チュラロンコン大王像とプミポン国王お手植えの松がタイ国を現しているが)まったく静かな日本大寺院の風情であった。毎月の縁日(21日)に集まる多くの善男善女の皆さんは寺の縁起(タイ国との関係)をご存じなのかと気になるところである。
在日タイ王国大使館公邸 (東京都 品川区 上大崎)
和歌山県出身の実業家の浜口邸は、海外に建築資材を特注、インテリア・絵画にも贅を凝らした瀟洒・華麗なゴシックスタイルの芸術的建物(1934年竣工)であり、1943年(昭和18年)からタイ王国大使官邸となっている。美しい庭園は現在もタイ国王陛下誕生日やソンクラーンなどの園遊会の会場にもなり、例年タイ国産のビール・ワインやタイ屋台料理をご馳走になっている。また清朝ラストエンペラーの弟君・愛新覚羅傳傑満州国皇帝に嫁いだ「流転の王妃」嵯峨浩嬢(浜口氏の姪)も在住し、お見合いも行なわれたという歴史も刻まれたお屋敷である。